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私事だが、7月3日に1週間の入院を終えて帰宅した。救急病棟に入れられた時に医師から言われたのは、命を落とさずに済んだのはラッキーだった、ということだった。幸いほぼ完治して、数日の自宅療養の後は通常生活に復帰できることになった。かくして久しぶりに自宅に戻り、BBCワールドニュースをつけたところ、英国のサー・キア・スターマー首相がディオゴ・ジョッタの名を挙げた場面に遭遇した。何が起こったのかと目が点になったところで、信じられない事故を知ったのだった。
ジョッタは、2歳下の弟アンドレ・シウバと共に6月3日の早朝にスペインのパラシオ・デ・サナブリア地区を運転中にダイヤに支障が発生し、事故死という悲劇だった。
その僅か12時間前にジョッタ自身がSNSにポストしたメッセージは、「2025年6月22日、永遠のイエス」というキャプションで、長年連れ添った奥さんと晴れの挙式&入籍を表明したものだった。クラブでプレミアリーグ優勝、そして代表チームでネーションズリーグ優勝を達成し、休暇入りして最愛の奥さんと正式に挙式という、幸せの絶頂にあった28歳のフットボーラーのメッセージだった。わずか2週間で未亡人になってしまった奥さんと愛らしい3人の子供たちのことを考えて、できることなら代わってあげたかったとすら思った。
世界のフットボール界から続々とジョッタへの追悼が発せられた。Liverpoolの現役選手とコーチ陣はもちろん、ジョッタとともに働いた元選手、監督コーチ陣、ウルブス、ポルト、ポルトガル代表チームでジョッタとともに働いた選手、監督コーチ陣、ライバルチームの選手、監督コーチ陣、あらゆる筋から心のこもったメッセージが飛び交った。現在大会が行われている女子ユーロでは、試合前にジョッタを追悼する黙とうが実施されることになった。フットボール界全体だけでなく、例えばテニスのウィンブルドンでもジョッタへの追悼が正式に表明された。ポルトガルのフランシスコ・カブラルが、真っ先に追悼実施を宣言した。
中でもLiverpoolの選手たちとコーチ陣は、例外なく全員が、自分の言葉で各々ジョッタを偲ぶ長文のメッセージをポストした。それぞれがジョッタの思い出を綴り、深い悲しみと衝撃を告げた。泣きながら書いている姿が浮かぶような感情的な追悼メッセージばかりだった。
「ジョッタは希望と目標の象徴だった」と、ジョッタが9歳から17歳まで育ったゴンドマルSCアカデミーのチェアマンが赤い目で語った。才能は明らかだったが、小柄の体がジョッタの出世街道をいばらの道にしたという。それでも自分を信じて努力し続けたジョッタは、とうとうFCパソス・デ・フェレイラからポルトへ、そしてイングランドのウルブスからLiverpoolと、成功に到達した。ポルトガルの才能ある少年たちはほとんどがベンフィカ、スポルティング、ポルトの3大クラブのアカデミー・チームで英才教育を受けてプロになるが、ジョッタは無名に等しいゴンドマルSCアカデミーで、努力で勝ち取った異例の成功事例となった。
「どのクラブで育ったかではなく、どこに行き着くかが大切」と、ジョッタは自身を振り返って語ったという。その言葉は、ゴンドマルSCアカデミーのモットーとして入り口に掲げられている。その隣にはポルトガル代表チームのシャツを着たジョッタの写真が飾られていた。2022年にディオゴ・ジョッタ・アカデミーと改名され、今も、そしてこれからも永遠に、ポルトガルの少年たちの希望と目標になっている。
アンフィールドでは、ジョッタを偲ぶファンが続々と訪れ、花束を捧げていた。2020年にLiverpoolに来たジョッタは、No.20のシャツを着て、クラブの20回目のリーグ優勝の立役者となった。優勝シーズン最初のゴール(対イプスウィッチ、試合結果は2-0でLiverpoolの勝利)と、実質的に優勝決定となった4月のダービー(試合結果は1-0でLiverpoolの勝利)での決勝ゴールという、いかにも「ディオゴール」の名にふさわしいジョッタは、ファンにとって永遠のNo.20となった。
RIPディオゴ・ジョッタ
*本記事はご本人のご承諾をいただきkeiko hiranoさんのブログ記事を転載しております。
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